なんてことない世界の果てで

なんだかんだで毒ばかり

親が死んでほっとした私は鬼の子か

私の母親は3年前に死んだ。

ある日突然死んだのだが、脳腫瘍を患って治療中だったので、ある程度の心構えは出来ていた。母の脳に巣食った腫瘍は10個を越えていて、医者はまあ一年は持たないよねえ、と場違いなのんびりとした口調で告げた。しかし母は何の後遺症もなく、手術もせず、2年を過ぎても元気に生きていた。その矢先、ある日突然、風呂に入っていて亡くなった。あっけないものだ。私を産み、育て、苦しみに満ちた人生を送り、40数年の短い人生を終えた母。

悲しかった。葬式では死ぬほど泣いた。あれだけ殴られ無視され罵倒され育ったのに、人が死ぬとこんな気持ちになるのだなと思った。私の息子はその時まだ0歳だった。微笑む母の遺影に向かって、あーうーといいながら息子が笑いかけていた。

 

 

でも私は正直、母が死んでほっとしてもいた。

認めたくなかったけれどもう言ってしまおう。

母が死んで、私は安堵した。

 

 

 

 

うちは本当に金が無かった。なのに金持ち学校に通っていた。

父方の親戚は皆公務員か教師で、父だけ異様なほどに不出来な人間だったから、祖母は私たち姉妹を教師にしたくて必死だったようだ。でも言わせてもらうが祖母も親戚たちもロクな人間ではない。ここで言うと長くなるから割愛するが、私は教師なんて九割区分、サディストで自己愛の強いろくでも無い人間だと思っている(もちろんそうでない人もいる、一厘くらい)。祖父は校長先生だったけどその一厘の人だったから、100パーセントとは言わないが。

そうは言えど、ろくに働きもせず借金を繰り返す父よりはまともだと言えよう祖母は、私たち姉妹をいつも可哀そうな子と憐れみ泣いていた。私たちって可哀そうな子なんだね、と妹が言った。

 

 

私たち姉妹は給食費すら払えないくせに金持ち学校に通い、非常に肩身の狭い学校生活を9年にわたって過ごした。学友たちはちょっと遊びに行く、と言って授業を休んで海外に行く。ハワイに別荘があるのだ。時差ボケだと言ってあくびをしながら、私の小遣い数か月分のお土産を無造作にクラス中に配る。誕生日にはどっかのホテルでディナーをする。みんな親は医者とか経営者で、団地に住んでいるのは私たちだけだった。私の親は財布に300円と入っていない時が多々あって、そんな時は納豆を妹と分け合って半分ずつ食べた。こんな世界が隣合っていることに私は子供ながらに不公平なものだなと思った。

 

 

母は不幸だったのだろう。そして依存体質だった。

金がなくて高校に行かせられないという親に、まあそんなもんだよなと諦念していた私は、奨学金をもらえる私立の特待生として高校に入学し、定期的な特待生考査をパスしながらバイトに明け暮れてやっとの思いで卒業した。就職して私は転勤族になった。とにかく母から離れたかった。母は寂しそうにし、あなたがいなくなると眠れないと泣き、拗ねたり怒ったりした。うんざりだった。母親のあれやこれやの茶番がうっとおしく、そして、私自身が心のどこかで母を悲しませていると自分を責めているのが嫌だった。自由になりたかった。仕事はすごく楽しかった。

でも、ふとした事で、私はパニック障害を患い仕事をやめざるを得なくなった。

 

 

半年ほどして私は意地ともいえる底力で復活し、学校に通い資格を取ると新しい仕事をはじめ、夫と結婚した。すぐに子供にも恵まれた。長男を抱く私に母はこういった。

「10年くらいしたら、毎月3万ずつでいいから仕送りしてね。妹にもそう言ってある。お父さんは年金を払ってないからお金はもらえないし、私も働けないから」。

ぞっとした。

10年後、私は10歳の子供を抱え、家のローンや教育費、習い事費に加えて親への仕送りもしなくてはならないのかと思うと戦慄した。そのころには兄弟も増えているかもしれない。子供を育てるのに金がかかることを知らないのか、と言いかけたが、私は中学を卒業してから一銭も親からお金をもらったことが無い。私立学校の指定のコートも、鞄も、ゼミ代も授業料も携帯代も、通学のための自転車でさえすべて自分で払った。時々家に帰ると父が私の財布から金を盗むので、鞄を枕元に置き財布を枕の下に敷いて眠った。まだ私から搾取しようというのか。わたしは激怒し、母は何も言わずに泣いていた。もううんざりだった。父にも母にも関わりたくなかった。私はただ幸せになりたかった。普通に生きて、普通に暮らしたかった。借金取りや母のヒステリックな泣き声や父からの金の無心にはもううんざりだった。

 

 

だから母が死んだ時、私は安堵した。

 

 

 

もう母の顔色を伺わなくていい。

母のお人形として、母の理想の娘にならなくていい。

ことある事にお金を払わなくていい。

老後だって面倒みなくていい。

仕事を休んで病院に付き添わなくてもいい。

自由になったんだ。

25年間の鎖が取れた気がした。泣きながら、私は生まれ変わった気持ちがした。

こんな私は鬼のような子だと思った。

鬼畜だと思った。でもそれで構わないと思った。

 

 

 

書いたらすっきりした。

認めたらそれでいいんだと思えた。

お母さん、私、あなたに愛されたかった。まだ小さかったわたしは、殴られても怒鳴られても蹴られてもあなたを愛していた。いつも愛されたくて泣いていた。叩かれるのは自分のせいだと思っていた。あなたがヒステリーを起こすと、土下座して泣いて謝った。そうしてでも愛されたかった。あなたから自由になりたかった。離れたくて仕方なかったのに、離れたらいけない子だという気がして出来なかった。あなたが死んでから私は強くなった。自由になった。夫と子供たちを愛せた。家族を作れた。私に初めて家族が出来た。今が一番幸せ。私にも幸せを感じられる日が来るなんて思ってなかった。でも、これは全て、私が努力して生き抜いてきたからだ。誰のおかげでもない。あなたのおかげでももちろんない。あなたは私に何もしてくれなかったね。産んでくれてありがとうなんて一切思わない。

 

 

さようなら、お母さん。さようなら、愛されたくて泣いていた小さな私。