ZONE-00という私の性癖をめちゃくちゃにした漫画が終わった
題名の通りなんですけども。
平成から令和を駆け抜けた、もんっのすごい絵の綺麗なもんっのすごい漫画が、終わってしまいました。かなしい。けどゾンゼロが終わるこの日まで生きてて良かった。生きられてよかった。今日をゾンゼロ記念日にしよう。弁天様のスタチューをここに建てよう。我々で永遠にこの日を祝おう。8月30日になると草花が咲き乱れ、川には乳と蜜が流れ、天使がラッパを吹き鳴らしながらゾンゼロ記念日を祝うのだ。
アアア~~~~~最後までクジョウくんとシマくんはお互いの事しか見てなかったな
とか
アアア~~~~~吉祥ちゃんは永遠にかわいいんだな
とか
水着サイコ~~~~~~~~~~~~~~~
とか
千両くんは最後まで千両くんだったな···
とか
なんかもう
感無量。 ~完~
って感じだ。勢いのまま感想書いとこうと思ったけど非常にあたまがわるい。
また単行本出たら語りだすかもしれない。
時間がたたないと物語が頭に浸透しないタイプの女だから···なんたってゴールデンカムイの最終回を今嚙み締めてますからね。リアルタイムで読んでたのに。どんだけ遅いんだ。
なんといっても九条キヨ先生
17年間の長期連載お疲れさまでした&ありがとうございました!
トリブラに続きゾンゼロまで最後まで見せていただいて感無量でございます
画集も絶対買うぞ!!!!!!!!!!!!!その日まで生きるからな
私の求める愛は重い
最近、また腐女子が再発している。
10年ほど前にハマっていたジャンルにカプ違いで沼ハマりし、毎日同人誌を眺め、pixivを覗き見、寝ても醒めてもそのカプに癒されている。
私の好きな攻めがこれまた包容力のある(設定でいる)男であり、優しく、男らしく、強引さもありながら受けを優しく包み込みめちゃくちゃに受けを愛している(設定でいる)。
それを見ていて思うのだが、私が現実的に求める愛はものすごく重いのだ、ということに気づいた。
一般女性が求める愛とはどんなものだろう。
自分を理解してくれる。
自分を一番に考えてくれる。
記念日にはプレゼントを欠かさない。
素敵なディナーを用意してくれる。
サプライズのプロポーズ。
優しく、怒らず、いつも穏やか。
こんなところだろうか?
例えば私が昔読んでいた人気の少女漫画やドラマなんかでは、傷ついた主人公のヒロインの子が何も言わなくても、ささいな仕草から落ち込みを察して寄り添ったりする。
「無理すんなよ」
「頼れるとこは頼ってよ」
「頑張りすぎ」
まぁ概ねそんなセリフを言う。
そこでヒロインは「私の事こんなに分かってくれてる」とキュンとするのだ。
私は、この「私のことを理解してくれる」というのが全然分からない。意味がわからない。昔友達がいた頃は、よく「彼氏が全然私のことを分かってくれない」と電話で愚痴を聞かされたものだ。店長時代は、バイトの子たちが彼氏と喧嘩したといって開店前によく泣くものだから、なだめすかしては話を聞いた。しかしそれは私の理解の外にある。
理解って何?人を理解するってどういうこと?理解されることで何が起こるのだろう。私は誰かを理解したいと思ったことも理解されたいと思ったこともない。なんなら、自分の子供たちのことも分からない。夫のことを理解しようと思ったこともない。
理解よりも具体的な手助けが欲しいし、家族には安心感や落ち着いて暮らせる環境を用意したい。理解する努力は必要かもしれないが、必ずしも「理解すること」に重きを置かなくてもいいのでは、というのが私の(稚拙かもしれないが)意見である。
だって、人間なんて何を考えているかはわからないものだから。
閑話休題。
さて、さっきのヒロインに寄り添う男のセリフを取り上げるならば、私は「頑張りすぎ」と声をかけられても嬉しくないし、別に誰にも頼りたくないし、無理しなければ子供を3人抱えて生きて行けぬ、という気持ちになる。身も蓋もないけど。
私の求める愛とは何か。
例え話になるが、私がつわりで苦しんでいるとする。余談だが、つわりというものは本当につらい。私は一度も仕事を休んだことはないが、こんな例は稀である。つわりの軽い私でさえ、体はだるく、吐き気が常に伴い、自分の唾液すら飲み込むことが難しくなる。匂いに敏感になり、特定の食べ物を異様に嫌悪するようになり、特定の食べ物を異様に求めるようになる。しかし上の子たちのために飯を作らなければならないため、吐き気を堪えて食事の用意をしなければならない。身体がいくらだるくとも、子供たちを保育園に迎えに行き、飯を食わせ、風呂に入れ、歯を磨いてやり、寝かしつけてやらなければならない。それが終われば掃除、保育園の準備、洗濯etc...
働く母は妊娠中も休めぬのだ。
私が家事をこなし、力尽きてソファに倒れ込んだ頃、先程の男(ヒロインに寄り添っていたイケメン)が帰宅してくる。ただいま、と穏やかな声で言うとすぐ、ソファで青くなる私に目を留め、直ぐに私のそばに膝をつき手を握ってくる。「どうしたの?」。具合が悪い、と言うと、彼はまるで自分にも体調の悪さがうつったかのように眉をひそめ、可哀想にと言う。「つわりが辛いんだな。お前、仕事も上の子達の世話も頑張りすぎなんだよ。そういう所が、いいところなんだけど···。無理しないで、頼れるとこは頼れよ。でも、ありがとうな。お腹の子のために頑張ってくれて」
どうですか?これ。平成すぎますか?令和の男は違うのだろうか?
0点。マジで0点。
私だったらその手を振り払って回し蹴りしてる。
こういうのが愛なの?こいつふざけてんの?膝ついてる暇があるならその床に散らばる子供の食べこぼしを拭け。顔色をうかがうな家の状態をうかがえ。口を開く前に手を動かせ。バラの花を贈るなら現金をくれ。その金で子供たちを託児して私は一人でカフェに行くから。
日常とは現実的で生々しい。可愛いね綺麗だよと甘い言葉を送り、妻の髪をなでてほほ笑むような男では生活が成り立たないのだ。私が求めるのは、ゴリラのように強靭で健康的で、リスのようにこまごまと立ち回れる男である。理解などいらないのだ。必要なのは屈強なフィジカルと、強靭なメンタル、必要最低限でもいいから継続的に金を稼ぐ力である。ほかのことはどうでもいい。
って書いてたら、私の求める愛ってまあ重いなって、思ったわけです。
そして最初の腐女子のくだり、いらなくねえか。
見栄っ張りって嫌いじゃない
題名のとおり、見栄っ張りだという人は嫌いじゃない。
夫や妹と話していると、時々見栄っ張りな人の話が出てくるのだが、その度に「張れる見栄があるっていいことだと思う」と言っている。本当にそう思っている。
私の夫は正真正銘の見栄っ張りだ。
とにかくブランドの服が好きだ。名のあるホテルでディナーをするのが好きだ。安く安全な互換性のある製品があったとしても絶対に純正品を買うし、Xmasや誕生日には、惜しげも無く良いものをプレゼントする。パッと見全然分からないのに、車にめちゃくちゃお金をかける。やっと買えたよ~!といって15万くらいするジャケットを買う。
でもうちは全然お金持ちじゃない。
夫のお小遣いは月3万円で、頑張りに頑張ってそれだけの見栄を張っている。
DiorやらBALENCIAGAやらマルジェラやらの服を子供たちに汚されないように、普段はユニクロやH&Mのセールで買った500円のTシャツを着ている。絶対にお弁当を持っていくし、お酒は大好きだけど飲み会は会社のしか行かないし(社長の奢りだから)、吉野家大好きだし、タバコもやめた。ジムにかよい、周辺をランニングし、家で簡単な筋トレをする。お小遣いの中から私や子供にお土産を買ってくる。時々安くとも三人の子供たちにおもちゃを買ってやる。私に服を買ってくれる。まったく天晴だと思う。
私はそうやって見栄を張るのはすごく良いことだと思う。
本当はブランド物が欲しいのに、オシャレなホテルディナーとかしたいのに、メイクだってデパコスで揃えたいのに、と思っていながら、「今どきブランドに拘るってダサい」とか「お金持ちはいいわねぇ、うちは子供にお金がかかって美容室なんて半年も行ってない」とか愚痴るより全然いい。超健全。ガンガン見栄張ればいいと思う。
ここで勘違いして欲しくないのは、確かに「ブランドにただこだわるのは本当にダサい」ということがひとつ。
例えばコピー商品を本物と偽って友人達に自慢するとか、本当はレンタルしたブランド物なのに、自分のものだと嘘ついてSNSにアップするとかは本当にダサいし痛いからやめた方がいい。
死ぬほどバイトして買ったバッグとか服を「彼氏が買ってくれたの」とか言うのも痛い。それは見栄っ張りじゃなくて虚言症なので早めにカウンセリングを受けた方がいい。大から小まで嘘つく人生になりますよ。
あともうひとつ、「本当は自分も欲しいのに、憧れがあるのに」見栄っ張りを貶す人がダメなのであって、全くブランド物やホテルディナーを必要としていない人がいるのは承知しておきたい。というか私がこのタイプである。
今はもう友人ではないのだが、私の過去の友人にも見栄っ張りな子がいた。いつも完璧にメイクし(いつもデパートのコスメカウンターで、最新のコスメを購入していた)、髪は神々しく巻かれ、美容室で手入れされた艶艶しい毛先は美しく、枝毛ひとつなかった。靴底の赤いハイヒールを何種類も持っていて、財布とスマホだけしか入らないような、誰もが名前を知っているブランドのバッグを持っていた。
今でも鮮明に覚えているのだが、一緒に映画を見に行く約束をしていた日の前日、「明日行けそうにない」とその子から電話がかかってきた。どうしたの、具合が悪いのと聞くと、違うと言う。「どうしても欲しいコスメがあるんだけど、たくさんのブランドから限定ばかり出るものだから、節約しなくちゃいけなくて1ヶ月くらいチキンラーメンとキャベツだけ食べて凌いでたの。そうしたらフラフラになっちゃって」と言う。もう好きだ、と思った。見栄っ張りなのに正直だし、見栄に努力が透けて見える。飯食えよ、と思う。聞けばそのコスメのために8万円は使う予定だという。人にはいろんな価値観があるなと感じた出来事だった。
親が死んでほっとした私は鬼の子か
私の母親は3年前に死んだ。
ある日突然死んだのだが、脳腫瘍を患って治療中だったので、ある程度の心構えは出来ていた。母の脳に巣食った腫瘍は10個を越えていて、医者はまあ一年は持たないよねえ、と場違いなのんびりとした口調で告げた。しかし母は何の後遺症もなく、手術もせず、2年を過ぎても元気に生きていた。その矢先、ある日突然、風呂に入っていて亡くなった。あっけないものだ。私を産み、育て、苦しみに満ちた人生を送り、40数年の短い人生を終えた母。
悲しかった。葬式では死ぬほど泣いた。あれだけ殴られ無視され罵倒され育ったのに、人が死ぬとこんな気持ちになるのだなと思った。私の息子はその時まだ0歳だった。微笑む母の遺影に向かって、あーうーといいながら息子が笑いかけていた。
でも私は正直、母が死んでほっとしてもいた。
認めたくなかったけれどもう言ってしまおう。
母が死んで、私は安堵した。
うちは本当に金が無かった。なのに金持ち学校に通っていた。
父方の親戚は皆公務員か教師で、父だけ異様なほどに不出来な人間だったから、祖母は私たち姉妹を教師にしたくて必死だったようだ。でも言わせてもらうが祖母も親戚たちもロクな人間ではない。ここで言うと長くなるから割愛するが、私は教師なんて九割区分、サディストで自己愛の強いろくでも無い人間だと思っている(もちろんそうでない人もいる、一厘くらい)。祖父は校長先生だったけどその一厘の人だったから、100パーセントとは言わないが。
そうは言えど、ろくに働きもせず借金を繰り返す父よりはまともだと言えよう祖母は、私たち姉妹をいつも可哀そうな子と憐れみ泣いていた。私たちって可哀そうな子なんだね、と妹が言った。
私たち姉妹は給食費すら払えないくせに金持ち学校に通い、非常に肩身の狭い学校生活を9年にわたって過ごした。学友たちはちょっと遊びに行く、と言って授業を休んで海外に行く。ハワイに別荘があるのだ。時差ボケだと言ってあくびをしながら、私の小遣い数か月分のお土産を無造作にクラス中に配る。誕生日にはどっかのホテルでディナーをする。みんな親は医者とか経営者で、団地に住んでいるのは私たちだけだった。私の親は財布に300円と入っていない時が多々あって、そんな時は納豆を妹と分け合って半分ずつ食べた。こんな世界が隣合っていることに私は子供ながらに不公平なものだなと思った。
母は不幸だったのだろう。そして依存体質だった。
金がなくて高校に行かせられないという親に、まあそんなもんだよなと諦念していた私は、奨学金をもらえる私立の特待生として高校に入学し、定期的な特待生考査をパスしながらバイトに明け暮れてやっとの思いで卒業した。就職して私は転勤族になった。とにかく母から離れたかった。母は寂しそうにし、あなたがいなくなると眠れないと泣き、拗ねたり怒ったりした。うんざりだった。母親のあれやこれやの茶番がうっとおしく、そして、私自身が心のどこかで母を悲しませていると自分を責めているのが嫌だった。自由になりたかった。仕事はすごく楽しかった。
でも、ふとした事で、私はパニック障害を患い仕事をやめざるを得なくなった。
半年ほどして私は意地ともいえる底力で復活し、学校に通い資格を取ると新しい仕事をはじめ、夫と結婚した。すぐに子供にも恵まれた。長男を抱く私に母はこういった。
「10年くらいしたら、毎月3万ずつでいいから仕送りしてね。妹にもそう言ってある。お父さんは年金を払ってないからお金はもらえないし、私も働けないから」。
ぞっとした。
10年後、私は10歳の子供を抱え、家のローンや教育費、習い事費に加えて親への仕送りもしなくてはならないのかと思うと戦慄した。そのころには兄弟も増えているかもしれない。子供を育てるのに金がかかることを知らないのか、と言いかけたが、私は中学を卒業してから一銭も親からお金をもらったことが無い。私立学校の指定のコートも、鞄も、ゼミ代も授業料も携帯代も、通学のための自転車でさえすべて自分で払った。時々家に帰ると父が私の財布から金を盗むので、鞄を枕元に置き財布を枕の下に敷いて眠った。まだ私から搾取しようというのか。わたしは激怒し、母は何も言わずに泣いていた。もううんざりだった。父にも母にも関わりたくなかった。私はただ幸せになりたかった。普通に生きて、普通に暮らしたかった。借金取りや母のヒステリックな泣き声や父からの金の無心にはもううんざりだった。
だから母が死んだ時、私は安堵した。
もう母の顔色を伺わなくていい。
母のお人形として、母の理想の娘にならなくていい。
ことある事にお金を払わなくていい。
老後だって面倒みなくていい。
仕事を休んで病院に付き添わなくてもいい。
自由になったんだ。
25年間の鎖が取れた気がした。泣きながら、私は生まれ変わった気持ちがした。
こんな私は鬼のような子だと思った。
鬼畜だと思った。でもそれで構わないと思った。
書いたらすっきりした。
認めたらそれでいいんだと思えた。
お母さん、私、あなたに愛されたかった。まだ小さかったわたしは、殴られても怒鳴られても蹴られてもあなたを愛していた。いつも愛されたくて泣いていた。叩かれるのは自分のせいだと思っていた。あなたがヒステリーを起こすと、土下座して泣いて謝った。そうしてでも愛されたかった。あなたから自由になりたかった。離れたくて仕方なかったのに、離れたらいけない子だという気がして出来なかった。あなたが死んでから私は強くなった。自由になった。夫と子供たちを愛せた。家族を作れた。私に初めて家族が出来た。今が一番幸せ。私にも幸せを感じられる日が来るなんて思ってなかった。でも、これは全て、私が努力して生き抜いてきたからだ。誰のおかげでもない。あなたのおかげでももちろんない。あなたは私に何もしてくれなかったね。産んでくれてありがとうなんて一切思わない。
さようなら、お母さん。さようなら、愛されたくて泣いていた小さな私。
あの時君は若かった
私は今年29になった。
29にもなって、若いころに好きだったものを、なぜだか最近手当たり次第に検索したり掘り返したりしている。
昔していたアニメのキャラクターのコスプレ写真、ライブのたびに撮っていたプリクラ、昔好きだったブランドのHP、10年前好きだったバンドの曲、当時の友人からもらった手紙、昔から書き溜めていたブログ。
そういうものを、手当たり次第に懐かしんでいる。
10年前、私は見た目で判断されたくて、一目でカテゴライズされることを望んでいて、腰まである髪を真っ白な金色に染め抜いて、なぜか前髪だけショッキングピンクにして、これでもかというくらい1時間早く起きてくるくるに巻いていた。頭には羽根のついたドールハット、20枚重ねくらいありそうなボリュームのスカートに、フリルたっぷりのタイがついた中世を思わせるようなブラウスを着て、コルセットを締めてレースアップの厚底ブーツで原宿を闊歩していた。ゴシックロリータ。今でも大好きだけどさ。着ないけど。関東ぎりぎりに住んでいたくせに、大阪だろうと名古屋だろうと、全国駆けずり回ってライブに週2回くらい行っていた。田舎の果てからバンドを追いかけ、いつもiPod classicから流れる爆音のロックンロールを耳に押し込んでいた。
見た目で判断されたい女子がたくさん集まって、控えめに言っても人生で1,2を争うくらい楽しかった。私が育った環境とか家庭はまともなものじゃなかったけれど、その中でもなぜかわりと普通に育った私は、首席で高校に入学して、カネを払わないどころか娘にすらカネをタカってくる父親を当てにしないために、バイトをしながら特待生で高校に通い続けた。
高校ではあまりまともとは思われてなさそうだったけど、幸い勉強にしか興味のない生徒ばかりが集まった3年間持ち上がりのクラスだったから、スクールカーストを気にせず好き勝手にふるまうことができた。バンド好きの生徒ともたくさん知り合うことができて、決して勉強ばかりのモノクロ青春を過ごすこともなく、楽しく生きてこれた。と思う。
思い返すと当時、走り屋(というのが正しいのか。とにかく、改造車に乗ってドリフトしたりする人達。暴走族とはまた違う、車好きのチームみたいな人達)とよくつるんでいた。友人の兄が走り屋だったという縁で集まった、15人くらいの集まり。
よく知らないけど、走り屋はそれが彼女でも友達でも、女性を隣に乗せるのがお決まりらしかった。
私もとりわけ仲良しの人がいて、1度も性的な仲になったことはないけれどいつもみんなで、あるいは2人で一緒にいた。2人で撮ったプリクラもいっぱい残ってる。元気かな。
そんな環境で、性的に危ない目に遭わなかったのは凄かったと思う。危機管理ができていたのかそうでもなかったのか。でも、自分の娘にはさせたくないな。
高卒で就職して、大好きな仕事で役職がついて、店長にもなって楽しかった。
渋谷だ新宿だ横浜だ、と大都会TOKYO付近の店舗をいくつも回りながら転勤して、都内が大嫌いなことに気づいた私はあっさりと大好きだった仕事を辞め、地元に戻った。
仕事でクソみたいな子が入ってきて(後ほどの調査でわかったが)商品を無断で持ち帰ったり、従業員の財布を盗んだり、あることないこと吹き込んで特定のスタッフを孤立させて辞めさせたりしていたのがストレスすぎてパニック障害になってしまったこともあり、すこし骨休めしてみたかったのもある。
(傷病手当をもらい、半年位で復帰して、やっぱりやめた)
そのあと、小中の同級生だった夫と結婚した。
幸せな家庭とは程遠い世界に生きていたから結婚なんて墓場だと思っていたし、母親は毒親だし、父親は借金まみれのクソ野郎だし、私自身一生結婚出来ねえなと思っていたのに、家族仲が良くて兄弟が多くて年に3回は家族旅行に出かけるような男と私は結婚した。クリスマスと誕生日には義母が嫁である私にプレゼントをくれる。主人も毎年欠かさずクリスマスと誕生日とけんかした時と何にもない日にプレゼントをくれる。
自慢じゃないが、私は主人と結婚するまで家族からプレゼントなんぞもらったことはない。友達の誕生日会に呼ばれても、家が貧乏だったからプレゼントを用意できなくて行けたためしがなかった。なんなら家族で外食したこともない。旅行もレジャーも行ったことがない。
主人と結婚して、年2、3回は義家族で旅行に連れて行ってもらう。
主人と結婚して、私は初めて一軒家というものに住んだ。
主人と結婚して、息子2人というめちゃくちゃ可愛い存在を得た。
余談だけど、子ども大嫌いな私からしても、子どもというのは人生が狂うほど可愛い。とにかく可愛い。毎日見ていたいくらい可愛い。寝ていても泣いていても歩いていても可愛い。なんで子ども嫌いだったんだ私、と思うくらい可愛い。自分は殴られ無視され育ったけど、とりあえず可愛い。もちろん癇癪起こして床でバタバタしているときは血管切れそうなくらいイライラするけど。
もう、iPodに詰め込んだ曲を爆音で耳に流し込みながら只管に煙草を吸うことも無いし、朝までよく知らない人と酒を飲むことも、子機を片手に握りしめながら眠りにつくことも、髪を真っ白に脱色することもライブに行くこともジャンクフードだけで生活することも無い。
私は煙草をやめたし、夜は0時前には寝るし、毎日子供のために食事を作るし、ライブ行ってたら子供はだれが見るんだって感じだし、母親は死んだからワンオペだし、髪なんかもう3年くらい染めていない。
でも時々こうして懐かしいものに囲まれると、もう涙が出そうなくらいとがって脆くて中二病的で恥ずかしい私自身を、本当に懐かしく思う。
戻りたくはないけど、でも楽しかった日々。
まあ楽にやんなよ、10年後なんかあんた2人も子供がいて美容室なんか半年に一回行けばいいほうだから。とか言いたい。絶対ごめんだわって言いそうだけど。